第1章『レ・ミゼラブル』の時代背景〜フランス革命〜

1.フランス大革命と後の共和政

フランス革命の原因は社会的問題であった特権の原理にたつ国王下の社会矛盾であった。
革命前のフランス政治社会体制度はアンシャン・レジームと呼ばれる身分階層によって構成されていた。
第1身分は僧侶、第2身分は貴族であり、この二階級は国のわずか2%で特権身分
(免税、官職独占、広大な土地を所有)が認められていた。
第3身分は平民で約98%を占めていた。
平民は細かく上層階級市民で一部貴族化、富裕農民、中産階級市民、自作小農民、小市民、貧農・小作農(農奴状態)、
サンキュロットと呼ばれる無産市民(職人、労働者)と分かれていた。
農民は重税のため1日にジャガイモ1つなど苦しい生活を送っていた。
中産市民は富を蓄え経済力は向上したため、自分たちにあった待遇を求め新しい社会政治体制の樹立を望んでいた。
しかし、フランスは財政難に苦しんでいた。その理由は、ルイ14世の侵略戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、
イギリスとの植民地戦争、アメリカの独立戦争への参戦などがあったためである。
革命勃発の第1段階は、ルイ16世が財政を再建しようと特権身分の課税を提案したが、特権身分の人々が反対した。
これをきっかけに三部会の要求が開かれたものの公平に行われなかったため市民は市民軍を編成して、
特権身分の貴族を相手に1789年7月14日にバスチーユ牢獄を襲撃した。
この行動はフランス各地に伝播し、革命が全土に波及した。
1789年8月4日に騒動の激化を阻止するために国民会議が開かれ封建的特権の廃止を決議した。
そして8月26日フランス人権宣言が採決され、自由主義者や上層市民の代表であったラファイエットやミラボーは自由、
平等、主権在民、私有財産の不可侵、言論の自由などを主張した。
しかし、王政廃止を考えていない立憲主義者との対立は続いていた。
そんな折、ルイ16世とマリーアントワネットは国外逃亡(オーストリアへ)を図るがあと少しのところで見つかってしまう。
このヴァレンヌ逃亡事件が国王一家に対する不信感をますます募らせた。
そのためオーストリア皇帝はプロイセン皇帝とともに革命に干渉しようとした。
フランス側は、ジロンド派である商工業市民が主導権を握ると1792年オーストリアに宣戦した。
しかし、市民では太刀打できず結果は敗北に終わる。
その年の夏、義勇軍とパリ民衆とともにチュルリー王宮は襲撃され王政から共和政に変わった(第一共和政)。
このとき義勇軍によって歌われた『ラ=マルセイエーズ』は、今日フランスの国歌になっている。




2.ヴィクトル・ユゴーとナポレオンの関係

ナポレオン=ボナパルトは1769年コルシカ島に生まれ、フランスに渡った後フランス革命に遭遇し、革命軍に参加した。
そして、王党軍の反乱を鎮圧し、総裁政府の信任を得た。
1796年には、オーストリア領のだったイタリアで派遣軍司令官として
オーストリア軍を破り軍隊とフランス国民の間で名声を高めた。
また、エジプト遠征や1799年にはクーデターで総裁政府を倒し、総領政府をたて自ら第一統領に就任して、独裁権を握った。
1800年には再びオーストリアを破り、1801年には革命以来フランスと対立関係にあった教皇と和解、
1802年にはナポレオンがイギリスと講和して国家の安全を確保したアミアンの和約が結ばれた。

ユゴーは、この年フランスのブザンソンで生まれた。ユゴーの幼年期、少年期はナポレオンの時代と完全に重なっている。
同じ時代に生きていたというだけではない。
ユゴーの父レオポルト・ユゴーは皇帝ナポレオン1世(ナポレオンは1804年皇帝の位につきナポレオン1世と称した。)の
軍隊で将軍の地位まで昇りつめた人物であった。そのため父の軍隊の任地であるコルシカ島、エルバ島、ナポリ、マドリードなど
ヨーロッパを転々としたことがわかっている。
1805年フランス海軍はトラファルガーの海戦でイギリス軍に破れ、
ナポレオンのイギリス侵入計画は失敗に終わったが、翌年にはライン同盟を結んだため神聖ローマ帝国は滅んだ。
この間ナポレオンの兄ジョセフをナポリ王、弟ルイにはオランダ王の地位を与えた。
また、ティルジット条約によってプロイセンは大幅に領土を失い、教皇領をも奪ったナポレオンは大陸をほとんど支配下においた。
1810年にはオーストリア皇帝のフランツ1世の娘マリ=ルイーズと結婚し勢力を拡大していった。
しかし、スペインの反乱を皮切にプロイセン、ロシア、オーストリアがライプチヒの戦いで、パリを占領されてしまった。
ナポレオンは皇帝の地位を奪われエルバ島に流された。その間にルイ18世がブルボン王朝を復活させ国土復活をしようとしたが、
事態は難航した。そこでエルバ島を脱出したナポレオンは再びパリで王位を取り戻した。しかし、ワーテルローの戦いで大敗して、
南太平洋の孤島セントヘレナ島に流された。
ユゴーの青年期にはフランス革命は沈静化していたが、フランス国内ではルイ18世の次に国王になったシャルル10世は
貴族や聖職者を重んじたため、反政府派が増加していった。そして、1830年にパリで七月革命が起こり王は追放されたが、
革命は各地に飛び火し、ユゴーは再び戦火に巻き込まれていった。このころのフランスでは、サン=シモンやフーリエらが
労働者階級を保護する新しい社会秩序を樹立しようとした工場ができたが、経営不振で廃止になったため6月暴動の原因となってしまった。
ユゴーはフランスの不安定な時代の中で共和政主義者として第二帝政を否定し、小島に閉じこもり、
帝政崩壊とともに社会復帰し、歴史小説「ノートルダム=ド=パリ」や「九三年」そして、「レ・ミゼラブル」などの中に
社会に対する批判を書き表したのだと考える。




第2章 『レ・ミゼラブル』の登場人物と人間関係

1.原作の登場人物と設定

 登場する人物は細かく説明されており、重要な役割をしている。
また、当時のフランス人の考えや行動などが反映されているので、それらについて見ていく。

2.1.1 徒刑囚と司教

 ジャン・バルジャンの登場は日焼けした顔、坊主頭で黄色のシャツそれに青いズボンを穿いている。
これは釈放された徒刑囚の格好であり、「南の方からやってきた」とあるが、これはトゥーロンの徒刑場の暗示であると思われる。
ジャン・バルジャンは人生をやり直そうと旅に出る。しかし、旅で疲れた体を休ませる宿を貸してくれる人はどこにもいなかった。
なぜならジャン・バルジャンは黄色のパスポート(注1)を持っていたからだ。
 ミリエル司教はフランスディーニュの司教で、徒刑囚であるジャン・バルジャンを初めて人間扱いしてくれた人であった。
ジャン・バルジャンは司教の慈愛に感動するがその日の夜に司教の家にあった銀の食器と燭台を盗んでしまう。
司教はこの事態を予測していただろうがあえて、目の前に出したのは2つの考えがあったように著者は考える。
1つはジャン・バルジャンを一人の人間、客として扱ったということ。
もう1つはジャン・バルジャンがこれから改心して行けるかどうかということだ。
このようなケースは日本の童話でもある。それは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。
お釈迦様とカンダタは司教様とジャン・バルジャンによく似ている。

2.1.2 盗みの理由

 そもそもジャン・バルジャンが盗みを働いたのはなぜか。
当時のフランスは今日の最貧国よりも劣らぬ凄まじさがあったと思われる。
産業革命によって収奪された貧民達は四六時中暗く汚い地下室に閉じ込められていた。
地下には中庭から滴り落ちる便所の水や汚水が水溜りを作り悪臭が立ち込めて息をするのもやっとという状態だった。
貧民の多くはボロ服を身にまとい腐ったワラのマットで体を休めた。
しかし、ワラがあればまだ良いほうで、かき集めた泥炭の中を床にする一家もざらにあった。
ジャン・バルジャンもその一人であった。ジャン・バルジャンは幼い時、両親を亡くし彼は年の離れた姉と暮らしていた。
姉が結婚し七人の子供をもうけたが、夫が亡くなりジャン・バルジャンと暮らす様になった。
ジャン・バルジャンの給料は1日24スー(1200円)(注2)で一家9人が暮らして行くのは困難であった。
そのためファヴロールのパン屋でとうとう盗みをしてしまった。
ジャン・バルジャンは徒刑場で人並み外れた怪力と身軽さで4度の脱獄を試みたがいずれも失敗し刑加重のため19年の服役を与えられた。
服役中に計算、読み書きを覚えた彼は社会と人間に対して深い憎しみを抱いていた。

2.1.3 グリゼットと学生の恋

 物語はジャン・バルジャンを離れてルイ18世による第2次王政復古が行われているフランスパリに移る。
ファンティーヌとフェリックス・トロミエスとのエピソードである。ファンティーヌはグリゼット(注3)と呼ばれる女工であり、
上層階級出身のフェリックス・トロミエスと恋人であった。当時上層中産階級の者と下層階級のグリゼットが結婚する事は不可能に近く
ファンティーヌはパリ学生街に上京して来たフェリックス・トロミエスの現地妻にすぎなかった。
やがてファンティーヌは彼に捨てられてしまった。しかし、悲劇はそれだけではなかった。
ファンチ−ヌは彼の子供を身ごもっていたのである。二十歳でコゼットを出産した彼女は借金などもあり職の無いパリを出て、
故郷モントルイユ=シュル=メールに徒歩で帰っていたのである。

 1818年のある夕方安料理屋の前を通りかかったファンティーヌは、
二人のかわいらしい女の子を見つけコゼットが仲良く遊んでいるのを見ると大柄な女に思いきって
コゼットを預かってくれないかと頼むと亭主が月に7フランそれに前金15フランと子供の服を置いて行くなら預かっても良いと
いうのでファンティーヌはそれに従った。テナルディエ夫妻はファンティーヌから得た金を全て使ってしまうと、コゼットを女中として使った。
彼女は村中の誰よりも早起きで仕事をしたので、「ひばり」というあだ名がつけられたわずか5歳のコゼットであったが、
フランスの児童虐待の問題を浮き彫りにしたもので決して珍しいものではないとわかる。
このテナルディエ夫婦こそが『レ・ミゼラブル』の本来の意味である「悪事を働く下賎の者」象徴であるといえる。
ユゴーもこのような下層階級の民衆が持っている下賎な行動としつこい取立てをする者達への恐怖を持っていた。

 ファンティーヌが故郷モントルイユ=シュル=メールを出てパリに行っている間、
何処ともなくやってきた1人の男のおかげで町はすっかり潤っていた。
マドレーヌと名乗るその男は男女別に工場(注4)を建て風紀を正し、誠実さだけを条件に全ての者を雇い入れていた。
そして、町の福祉に気を配り病院や学校まで建て、町の人の信頼を得て市長に任命されていた。
このマドレーヌは2本の燭台を自室に置いていた。この点からこの男がジャン・バルジャンだということがわかる。
しかし、民衆の信頼を受けていたマドレーヌを不審に思う男が一人いた。警部ジャベール(注5)である。
ファンティーヌはマドレーヌの工場で働くが、私生児がいることを知られ女工場長に解雇されてしまう。
そこへテナルディエ夫妻が追い討ちをかけるように金を請求する。
ファンティーヌは持ち物全てを売り払うが送金ができず、自分の髪や前歯まで売ってしまう。
しかし、コゼットが病気だからと言ってテナルディエ夫妻は100フランを要求する。
そして、ファンティーヌは娼婦になるのである。
当時のフランスでは、貧困のためファンティーヌのように自分の身を落としていく下層階級の女性は一般的であって決して
珍しい光景ではなかった。

2.1.4 出会い

 ジャン・バルジャンとジャベールとファンティーヌの出会いは、
ファンティーヌがカフェの前で流し(注6)をしていた時であった。
彼女は遊び人バマタボワによって背中に雪の固まりを入れられたことによって大声を出し反抗して飛びかかったところに
ジャベールが現われ彼女を警察に連行して6ヵ月の禁固を言い渡された時ジャン・バルジャンが救ったのである。
ジャン・バルジャンに助けられたファンティーヌは初め彼が市長だと知って激しく反抗した。
なぜなら彼のせいで今の自分が惨めな思いをしていると思いこんでいたからである。
しかし、それは誤解でありジャン・バルジャンが彼女の借金を清算し、コゼットを引き取ると約束したので安堵したが、
長年の疲労と持病の胸部疾患が悪化して愛娘コゼットに会う前に息を引き取る。
その間にジャン・バルジャンの汚名を着せられた男が裁判にかけられる。
ジャベールはマドレーヌ市長に疑いを持っていたことを打ち明け職務を辞退しようとした。
そんな忠誠心の固まりの彼を見てマドレーヌは自分こそがジャン・バルジャンだと名乗ろうとするが、
今名乗ればファンティーヌの想いと幼いコゼットはどうなってしまうかと
ジレンマに陥るがやはり罪の無い男を落とし入れることは出来ないと自ら裁判所に出向き告白する。
そして、徒刑場に入れられるが脱獄してコゼットの元へ急ぐのであった。

2.1.5 ユゴーの社会観 

 ユゴーの小説では物語りはスムーズに進まず、幾度となく脱線する。
それは当時のフランスの様子をこと細かに書き綴っており一見物語に関係のないように思われるが、
大変重要であることを見逃してはならない。筆者はフランスの民衆の団結力や王党派に反発する革命派をただ闇雲に追っていただけで
あったが、原作を読んだりフランス史に触れることで理解し始めた。
また、筆者が『レ・ミゼラブル』を読んで興味を持ったのは、国民の貧窮の問題もそうであるが、
フランスの下水道の衛生問題であった。物語ではよく下水道が出てくる。これは当時の下水道管理の行き届きが悪く
殺人者や悪党などが住みつき、死体が捨てられたりするのも珍しい光景ではなかった。
そういう訳でめったに人が近づかない地獄の入り口であったことを象徴している。

2.1.6 コゼットとマリユス

 物語は脱走したジャン・バルジャンとコゼットが成長していく過程がしばらく続く。
そして、美しく成長したコゼットは革命家マリユスとお互い惹かれ合う。
マリユスはナポレオンの部下であった父ジョルジュ・ポンメルシーを尊敬し、同時にナポレオンを崇拝していた。
そのため、王政になっていたフランスを共産主義にしようとする革命運動に身を投じていた。
マリユスの周りにはアンジョルラスを始めとする若者き革命家達が仲間にいた。
彼らは政治秘密結社ABC(アーべーセー)友の会のメンバーであった。
革命運動に参加したのは彼らのほかにテナルディエ夫妻の娘エポニーヌと息子ガブローシュもいる。
ガブローシュはテナルディエ夫人が男の子を嫌っていたため幼くして家を追い出されている。
しかし、彼はそれを悲しいとは思わず、弱者に力を貸す救世主のような働きをする。
彼の健気な行動にはかわいらしさを感じるが、孤児に対して「自分に着いて来い」という行動は幼いながらにも社会に生きる責任を、
身をもって知った大人の表情さえ感じさせる。
そして、マリユスに恋心を抱きながらも言い出せないエポニーヌは愛するマリユスの盾となって
戦場の流れ弾に当たって命を落とす最初の犠牲者である。しかし、彼女は幸せであったのかもしれない。
なぜなら、マリユスに肩を抱かれ最後を看取ってもらったからだ。
(しかし、皮肉にもこの思いはマリユスには届かず後に彼はコゼットと結ばれてしまう。)

2.1.7 共和政をめざして

 暴動はかくして失敗に終わる。ABC友の会のメンバーは多くの者が命を落としたり大けがを負った。
マリユスも命は取り止めたものの4ヵ月も意識を失うことになる。
しかし、そんな大けがをしていてなぜ戦場から抜け出せたのか。
意識を取り戻した彼はコゼットを妻に迎えるが、そのことはいつも疑問に思っていた。
ある日マリユスはコゼットの父のジャン・バルジャンから彼が昔徒刑囚で会ったことを聞かされ、
次第に軽蔑してコゼットにも近づけさせない様にして親子の関係も疎遠になっていた。そんな折ある男がマリユスの家を訪ねてきた。
彼の名はテナールと言ったがマリユスは彼がテナルディエであることを悟った。
テナールは決戦が行われた夜、下水道で男が死体を担いでいるのを目撃して担がれた死体の上着の切れ端を男に気付かれない様証拠として取っておいたと言った。
テナルディエはこの話でマリユスから金を貰おうとしていたのだ。
その時のマリユスの驚きは心臓が止まりそうになったに違いない。
自分を助けてくれた人にひどい行為をしてしまったとそして、コゼットを連れジャン・バルジャンに会いに行く。
しかし、無情にも2人が彼を訪れたとき彼は病魔に侵されていた。
ジャン・バルジャンは2人に手を握られ辛く厳しかった、しかし幸福にも出会えた長い人生に幕をおろしたのであった。
小説の最後はこう記されて終わっている。
その人は眠る。その運命はまさに数奇だったが、
その人は生きぬいた。その天使を失うとすぐ
その人はみまかったが、死はしごくの自然に訪れた、
さながら昼が去れば、夜が訪れるように。
(原題  LES MISERABLES)



 筆者が小説で特に印象に残っているのは、ファンティーヌとジャン・バルジャンである。
ファンティーヌが若くして母親になり自分の身を削って愛するコゼットのために働く姿は尊敬するし、健気に感じる。
その母の愛をコゼットは幼いゆえ直接受けることができなかった、という悲劇的な事態も印象深い。
また、ジャン・バルジャンの行動は生きていれば必ず出会うだろう葛藤、喜び、悲しみ、慈愛などを読者に顧みさせてくれる
人間の縮図であると筆者は思う。自分がジャン・バルジャンであるならば徒刑囚である事を隠し通すか、
それとも自ら告白することによって罪を一生背負い、冷たい牢獄の中で償いを続けるのか。
神を信じるのか、信じることによって人生が救われるのかを考えさせられるのだ。






注1

19世紀フランスでは、行く先々の市役所でパスポートを見せる義務があった。
徒刑囚は特に1週間おきに黄色のパスポートを市役所に見せることを義務づけられていた。

注2

18世紀の肉体労働者の平均時間給は2スー(100円)でパン1キロ(バケット4本分)は5スー(250円)であったといわれる。

注3

灰色の安手の服を着ていたのでグリゼット(grisette)と呼ばれた。

注4

1830年代からフランスでは産業革命を迎えたが、1845年頃には工場労働者の過
酷な労働条件と失業が深刻であった。原作でのジャン・バルジャンの工場は風紀 
  の乱れぬ正当な工場であることからジャン・バルジャンがマドレーヌに生まれ変 
わって誠実であり名声も高いことを象徴していると考えられる。

注5

ジャベールは徒刑囚の父とトランプ占い師の母を持ち、自らの階級に対し深い憎 しみを抱いていた。
そして、社会から疎外されたもう1つの階級である警察に入った。
法律には絶対的で、感情も権威に対する尊敬と反逆に対する憎悪だけである。性格は真面目で厳格である。

注6

ここで筆者が驚いたことはファンティーヌが売春で捕まったのではないという事である。
フランスでは今も昔も売春行為は犯罪ではないということで、ファンチーヌが捕まったのは バマタボワに飛びかかったからであったのだ。



2.『レ・ミゼラブル』の映像化

小説から映画化、オーディションによって選ばれた俳優人によってミュージカル化された経緯などを探って行く。


2.2.1 最初の映画化

 『レ・ミゼラブル』が初めて小説から映画化されたのは1909年であるが、
実際は1979年フランスの作曲家クロード=ミッシェル・シェ―ン・ベルグと作曲家のアラン・ブーブリブが
ポップ・オペラを企画したところから始まったと言われている。
ミュージカルでの世界初演は、1985年10月8日ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSP)と
キャメロン・マッキントッシュのプロデュースによる、ロンドンのバービカン劇場での上演であった。
その後はウエスト・エンド(注7)のパレス劇場に移ってロングラン上演になった。
 ロンドンからアメリカに渡った『レ・ミゼラブル』は、1986年12月27日ワシントンのケネディ・センターに始まり、
翌年3月12日にはブロードウェイで上演が開始された。そして、1978年には第41回トニー賞(注8)で8部門を獲得した。
その年のトニー賞候補は他に『ミー&マイガール』、『スターライト・エクスプレス』『ラグス』の3作品があったが、
その中でも飛び抜けた評価であったことを付け加えておく。

2.2.2 日本でのミュージカル化

 その後、ミュージカル『レ・ミゼラブル』は日本に渡り、阪急東宝グループが上映権を獲得し、
1987年6月17日に帝国劇場で幕開けとなった。
日本版ミュージカル『レ・ミゼラブル』はオーデションで全キャストが選ばれた。
これは日本ミュージカル界で初めてのことだった。
その理由は、オーデションは試験ではなく、その役にあった人材を探し出すことにあった。
初めてのオーデションは、新聞に役柄や年齢などが説明された記事が載り、履歴書や歌声の入ったカセットテープが続々と集まった。
応募総数は、11274名だったという。関係者はそれら全てに目を通し、47名が厳しい関門を突破した。
その中には名の通った大女優や大物歌手達が大勢いた。例えば、前田美波里である。
彼女は、1998年に念願の『レ・ミゼラブル』の舞台で活躍したが、「10年前から『レ・ミゼラブル』に出たかったんです。」というオーデション脱落者の1人であった。
『劇団四季』で演技を磨いていた彼女でも『レ・ミゼラブル』の舞台に10年も上がれなかったのである。
あるTV番組で彼女は「全く通用しなかった、カンパニーには入れなかったが、頼み込んで正キャストの人と一緒に練習してミュージカルを1から勉強させてもらった」と後に語っている。
それほど『レ・ミゼラブル』は役者にとって魅力ある作品の1つであるのだ。
そんな役者達が作り上げる舞台は、観劇者にとっても興奮するものになることは言うまでもないだろう。
そして、日本公演の成果は『昭和62年度文化庁芸術祭賞』と『第14回菊田一夫演劇賞特別賞』を獲得した。

そして、2000年12月3日より2001年2月21日まで帝国劇場で上演される『レ・ミゼラブル』の新しい配役が2000年9月7日発表された。
筆者が特に関心をもったのはコゼット役の3人だ。歌手のtohko、女優の安達祐美、元劇団四季の堀内敬子がオーディションでコゼット役を勝ち取った。
ちなみに今回のコゼット役は約80人の応募があった。

さて、『レ・ミゼラブル』は舞台だけではない。
1957年に映画化され現在廃盤になっているジャン・ギャバン主演の3時間10分の大作『レ・ミゼラブル』は有名である。
これは、原作を忠実に作品化している。また、1995年には映画『レ・ミゼラブル輝く光の中で』がゴールデン・グローブ賞を獲得した。
これは原作を元にして第二次世界大戦と重ねあわせて争いや家族を守る人々の姿が描かれている。
そして、最新の映画は、1998年(日本公開は1999年正月)に公開した主演リーアム・ニーソン(注9)の『レ・ミゼラブル』である。
1999年の映画はミュージカルと設定が似ている。ということは原作に基づいた演出になっているということが言える。
このことを踏まえて1999年映画とミュージカル『レ・ミゼラブル』についての比較もしていく。





注7

「現在の日本では、ニューヨークの演劇街をブロードウェイと呼び、 ロンドンの演劇街をウエスト・エンドと呼ぶことが一般化されてきた。」
(『ブロードウエイの魅力』大平和登p6)より引用。

注8

<最優秀ミュージカル賞>、<作詞・作曲賞(最優秀オリジナル・スコア賞)>
(作詞ハーバード・クレッツマー、アラン・ブーブリル)(音楽クロード=ミッシェル・シェーンベルク)、
<最優秀ミュージカル演出賞>(トレヴァー・ナン、ジョン・ケアード)、
<最優秀ミュージカル助演男優賞>(マイケル・マグガイヤ)、
<最優秀ミュージカル助演女優賞>(フランセス・ルフェール)、
<最優秀ミュージカル脚本賞>、
<最優秀装置デザイン賞>(ジョン・ネピア)、
<最優秀照明デザイン賞>(デヴィット・ハ―シー)の8部門を獲得した。

注9

アイルランド出身で1981年に『エスクリカバー』でデビューした。代表作は『シンドラーのリスト』がある。



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