第3章 映画『レ・ミゼラブル』とミュージカル『レ・ミゼラブル』の比較

3−1.1998年の『レ・ミゼラブル』成立過程

 1998年に豪華な俳優人のキャストで話題になったビレ・アウグスト監督の『レ・ミゼラブル』の成立過程について見て行く。
3.1.1 映画の企画

 ユゴーの『レ・ミゼラブル』は『リメイク映画への招待』(注1)によると過去何度も映画化されている。
その中で最新の『レ・ミゼラブル』のリメイク作品が1998年製作ビレ・アウグスト監督(注2)の作品である。
脚本家のラファエル・イグレシアスは、ユゴーの長編小説の欠点(主人公が400ページに渡り登場しない等)を古典のテーマである
贖罪と捉えて、善と格闘するジャン・バルジャンそして、それを密かに追い続けるジャベールとの関係に絞りプロットを進めたという。
そして、ビレ・アウグストが監督に選ばれた理由は、彼が他の監督にはない物静かで落ち着きのある芸術家タイプであったためだと言われる。
後にイグレシアスは「冷静沈着で、なおかつ作品に対する深い情熱を持っている。このコンビネーションが必要だと思った。
彼はパッショネートなシーンを変にロマンティックになったりせずに演出できる監督。だから彼の映画の人間たちはみんなリアルなんだ」と絶賛している。
また、ワシントン・タイムズでは「ワンショット、ワンショットがここまで完璧な映画はない」と評価している。


3.1.2 新しい解釈

 この映画の特徴は、小説の新しい解釈の仕方にあると筆者は思う。
今までの作品は勿論素晴らしいものだと思うが、小説に忠実になりすぎたものや、小説をベースにした全く別の作品であったりした。
イグレシアスはまず、ジャン・バルジャンとジャベールの性格に注目して脚本を書いている。
「ふたりは同じような心理構造を持っているとてもよく似た人物だ。だがひとつ決定的な違いがある。
バルジャンは許しと愛を経験し、それを受け入れるのに対し、ジャベールにはそれがない。
これは単に善と悪を描いたものではなく、まったく違う人生観を描いたもの」と言うように、
映画全面にジャン・バルジャンとジャベールの相対するシーンが登場する。
まず、映画にみる「ふたりは同じような心理構造を持っている」というところでは、ジャン・バルジャンが更正した後男女別の工場を
経営し規律を守って生活することを民衆に指導した点が思い出される。
またジャベールでは、法律に絶対的で民衆にも従わせ、悪を見逃さないようにする姿が相似している。
そして、「決定的な違い」で筆者が特に印象が強いのは、ジャベールが彼とジャン・バルジャンの中にお互い持っている
友情愛を認めたくない自分とジャン・バルジャンに借りが出来た自分を許すことができず、
セーヌ川に身を投げ自殺してしまうシーンである。
ジャベールは正義に忠実であり、誰に対しても(自らの行動さえも)厳格に扱う男として描かれている。
また、アウグスト監督は「ふたりは言ってみれば陰と陽の関係。
ジャベールが何百万人の中から彼を見つけ出し追うのは彼が自分ととても近いものを感じているからなんだ」と言っている。
この監督の言葉には筆者も共感できる。
ここで筆者の考えを付け足すとすれば、ジャン・バルジャンとジャベールは二人で一つであり
また、ユゴー自身の性格を反映していると考えられる。
そして、これは人間の性格に誰もが持っている心理構造なのではないであろうか。


3.1.3 キャスト起用

 アウグストは「ジャン・バルジャン役はリーアム・ニーソンしか考えられなかった」と言う。
その理由の1つは、役に必要な強い肉体と男性美を持っていること。
また、センチメンタルにならすにパッショネイトな感情を表現できることである。
そして、彼との重要な組み合わせとなるジャベール役には、ジェフリー・ラッシュ(注3)をキャスティングした。
その理由は3つあり、1つはジャべ―ルを伝統的な悪役タイプにならずに表現できること。
2つ目は、ジャベールの知的さを表現できること。そして3つ目は、感情に左右されない情熱家としての姿を表現できることであった。
この全てに当てはまったのが、ジェフリー・ラッシュであったのだ。


3.1.4 愛のテーマを奏でるヒロイン

 この映画のもう一つのテーマである愛を表現できるヒロインとして選ばれたのが
ユマ・サーマン(注4)とクレア・ディーンズ(注5)である。
ファンティーヌ役にユマ・サーマンを選んだことによっってファンティーヌが
「極めて微妙で感動的なキャラクターになった」とアウグストは言っている。
確かにユマ・サーマンが演じるファンティーヌは、美しく気高く個性があり、
女性の強さや優しさ子供に対する愛情をリアルに表現し観る者に感動を与える。
またファンティーヌの娘であるコゼット役にはクレア・ディーンズが抜擢されたが、
その理由としては「完璧なイノセンスと、豊富な経験を持つ驚くべき若手女優」と評価している。


3.1.5 撮影現場

 物語は19世紀のパリであるが、主な撮影現場となったのはチェコであった。
その理由は、プラハの田園地方は「東のパリ」と呼ばれており、当時のパリとの共通点が数多く見られたからであった。
映画の中は当時のパリそのものであると考えられる。なぜならユゴーは小説の中で、当時の様子を事細かに文字にしているからである。
描写が多く小説を読んで創造をすることも可能だが、映像になることによって観客はその時代にタイムスリップすることができる。
物語の終盤では、フランスパリに撮影現場が移動し、終了している。ここからこの映画が、フランス文学の古典であり、
ユゴーの故郷で撮影することで文化に対する映画製作者たちの尊敬の意が込められているように感じられる。








注1

『リメイク映画への招待』は児玉数夫の著書であり1988年に時事通信社から出版されている。
過去リメイクされている映画の特徴や年代、出演者から監督まで詳しく載っているので参考にした。

注2

1948年デンマークで生まれる。 ストックホルム写真学校とデンマーク映画学院で学んだ後14本の映画とTVフィーチャーでカメラマンを務めた。
監督デビューは1987年の『In My Life』で、監督後もデンマーク・アカデミー賞を受賞するなど活躍している。
彼は一貫してスケールの大きな叙事詩的ドラマを取る特徴がある。

注3

1951年オーストリアのトゥーバン生まれ。
幼いころから演劇に興味を抱き、クィーンズランド・シアター・カンパニーに大学入学後に入った。
1995年の『シャイン』で実在の天才ピアニスト役で一躍国際的注目を集めた俳優で数々の映画賞に輝いている。
最近では『恋に落ちたシェイクスピア』でオスカー・ノミネートを受けるなど活躍は目覚ましい。

注4

1970年アメリカボストン生まれ。
15歳のとき、ニューヨークでスカウトされ舞台女優になる。
その後、女優を目指し、1987年に『ミッドナイト・ガール』で映画デビューする。
1989年の『バロン』のビーナス役で国際的注目を集め、『バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲!!』(1997)、
『アベンジャーズ』(1998)など数々の映画に出演している。

注5

1979年アメリカニューヨーク生まれ。
10歳の頃から演劇を学び、子役として活躍していた後、TVドラマ『アンジェラ・15歳の日々』の主役を経て、
最近ではレオナルド・デカプリオとの共演で話題となった『ロミオとジュリエット』(1996)など話題作に引っ張りだこの若手女優である。
http://www.spe.co.jp/movie/nowplaying/lesmiserables/





3−2.ミュージカル『レ・ミゼラブル』の魅力

 筆者が見たミュージカル経験、観劇経験をもとに、中日劇場での『レ・ミゼラブル』の感想、舞台装置などに注目していく。

3.2.1 舞台設定

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』魅力は全体がオペラのように曲付きの台詞構成になっていることである。
大抵のミュージカルは、台詞があって、主人公や出演者が「ここを伝えたい!」というところで歌に入ったりダンスが始まったりするのであるが、
『レ・ミゼラブル』は初めから終わりまでずっと歌で演技が行われる。
オペラと違うと思うところは、オペラの場合、演技より声楽に焦点を合わせているところである。
また、オペラは古典的な落ち着いた演目が行われることが多い。
ミュージカルは、アメリカで生まれた現代的な作品であり軽快なダンスもあれば、
近年ではコンピュータを駆使した電子的な音楽で舞台を盛り上げることもある。
筆者が観劇した中日劇場はまさに劇場全体がコンピュータで操作されており役者の動きが客席によりリアルに伝わってくるのであった。
オペラによく使われる何層にも重なった布や霧のカーテンは奥行きを出すための仕掛けだがコストがかかるため

ミュージカルなどではあまり使われなかったが、機械化によって幕間の時間が縮まり豪華な舞台大道具も簡単に操作できるようになった。
もちろん、そこには多くの工夫もあり時間短縮のためにリボリューションステージ(廻り舞台)だけでなく、
二重の盆が傾斜舞台に組まれ上と下とで登場人物達が異なる演技をしたり、役者達の心情に合わせて急速に廻ったり時には
ゆっくり廻ったりすることによって芝居に奥行きをつけたりすることが可能になってきている。
また、照明や音響、噴霧機によって地下道や雨のシーンまた朝もやのシーンなどリアルに感じられた。
3.2.2 ワイヤレスマイクの活用

 役者達は一人一人ワイヤレスマイクを通して台詞を言う。それはまるで観客のすぐ側で話しているように聞こえる。
このマイクは機械整備されておりどの場面でどの役者がどのように動くかを察知してその声を拾うのだ。
以前使用していたマイクは衣装の中などに隠していて動くと雑音が入ってしまったりという欠点があったが
ワイヤレスマイクそれがなく非常にクリアに聞こえるようになった。筆者が驚いたのは役者がマイクを設置した場所だった。
それはどこかと言うと役者の額の生え際であった。筆者が以前見た事があったのは、衣装の胸元からマイクの頭を出したものや、
かつらの脇、つまり耳のあたりから口元に肌色にテーピングしたものであった。
役者の顔を見るたび気になっていたものだがこのミュージカルを見たときマイクを気にすることなく見ていたのに後になって気付いた。
それほど違和感がなく画期的なことであると感じた。

3.2.3 ミュージカル『レ・ミゼラブル』で感動する理由

 ミュージカルとは、「音楽・演技・ダンス」の舞台である。
この3大要素の中にミュージカルの魅力が詰まっているということは誰もが認める事実である。
はじめに述べたように筆者はミュージカル経験があり、機会があれば何度でも観劇したいと思っている。
演技だけのストレート・プレイにももちろん面白さはあるが、そこに踊りを取り入れることによって躍動感が増し、
歌が加わることによって感情に奥行きが増すのである。ほとんどのミュージカルは、ソロによる役の個性が観客を釘付けにするが、
ミュージカル『レ・ミゼラブル』で筆者が特に注目するのは、アンサンブルによる重層な歌声が観客の心を虜にするところである。
ここで日本版ミュージカル『レ・ミゼラブル』の曲名を紹介する。

<ミュージカルナンバー>
PROLOGUE
囚人の歌/The Chain Gang
仮釈放/On Parole
司教/The Bishop
バルジャンの独白/Valjean’s Soliloquy
ACT:1
1. 一日の終わりに/At the End of the day
2. 夢やぶれて/I Dreamed a Dream
3. 波止場/The Docks : ラブリィ・レイディ/Lovely Ladies ファンティーヌの逮捕/Fantine’s Arrest
4. 馬車の暴走/The Cart Crash : 裁き/The Trial
5. ファンティーヌの死/Fantine’s Death対決/The Confrontation
6. 幼いコゼット/Little Cosette
7. 宿屋の主の歌/The Innkeeper's Songこの家の主/Master of the House
8. 取引/The Bargain裏切りのワルツ/The Waltz of Treachery
9. 乞食たち/The Beggars
10.強奪/The Robbery
11.星よ/Starsエポニーヌの使い走り/Eponine’s Errand
12.アー・べー・セー・カフェ/The ABC Cafe
13.民衆の歌/The People’s Song
14.ブリュメ街/Rue Plumet
15.心は愛に溢れて/A Heart full of Love
16.ブリュメ街の襲撃/The Attack on Rue Plumet
17.ワン・デイ・モア/One Day More
ACT:2
18. バリケードを築く/Building the Barricadeオン・マイ・オウン/One My Own 再びバリケードで/Back at the Barricade
19.バリケードでのジャベール/Javert at the Barricadeちびっこ仲間/Little people 恵みの雨/A Little Fall of Rain苦悩の夜/Night of anguish
20.最初の攻撃/The First Attack
21.その夜/The Night 共に飲もう/Drink with Me 彼を帰して/Bring Him Home 苦悩の夜明け/Dawn of Anguish
22.第2の攻撃/The Second Attack
23.最後の戦い/The Final Battle
24.下水道/The Sewers
25.ジャベールの自殺/Javert’s Suicide 犠牲者たち/The Victims
26.カフェ・ソング/The Cafe Song 空のテーブル空の椅子/Empty Chairs at Empty Tables
27.マリウスとコゼット/Marius and Cosette バルジャンの告白/Valjean’s Confession
28.結婚式/The Wedding エピローグ/Epilogue アンコール/Bows



 ここで海外版ミュージカルと比べて気付いた点について少し触れてみる。
海外版と日本版では、出演家作曲家などスタッフの顔ぶれは変わらないが多少の担当移動があるため、
違いがある事が資料を調べていくうちに分かってきた。海外版では囚人番号が24601となっていることだ。
これは発音の点で初め日本では24601(トゥエンティーシックスオーワン)と
なっていたが発音しにくいということ24653に変更された。
ちなみに海外版と日本版は声質の違いによってか、海外版のほうが日本版より音程が低くなっており、
日本の俳優のほうがファルセットをより多く使って発声しているように感じた。また、感情の入れ方も異なり、
海外版の方が穏やかな感情移入がされているように感じた。
筆者が最も感動したミュージカルナンバーは第2部でエポニーヌが歌う、「On My Own」である。
これはマリウスに恋心をいだくエポニーヌが、伝わらない恋心を悩み、孤独と戦い、
しかも恋するマリウスのために恋敵コゼットとを結びつける役目をする。
そんな切ない少女の気持ちが全面に表われている1曲である。
どの曲も覚えやすく素晴らしいが、出演者全員で歌い上げるエピローグは迫力と感動で胸に込み上げるものがある。
本題とは少し離れるが2000年9月15日開幕のシドニーオリンピックのフランス選手行進曲に、
このミュージカル『レ・ミゼラブル』のテーマソングが流れたのは記憶に新しい。
ちなみに日本選手の行進曲は「さくら さくら」であった。

本題に戻るが、ミュージカル演出家である宮本亜門氏が「良いミュージカルとは観劇後、
テーマソング以外に3〜4曲思い出す事ができるものである」と
言ったのを聞いたことがある。筆者は『レ・ミゼラブル』を観劇した後この言葉をとっさに思い出した。
まさに筆者にとって『レ・ミゼラブル』こそがそれであったのだ。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は約30小題の曲名が付けられ紹介されているが、全て異なる曲想ではなく、
いくつか同じ旋律で台詞や場面が異なっている。このことは観客に心理的安心感を与える。
同じ旋律を使用することで観客が「よく知っている」と錯覚し、台詞に注目させることによって
親しみと感動するという行為に影響を与えているのかもしれない。





3.映画とミュージカルの相違点


 映画とミュージカルのクライマックスは1830年代のパリである。
映画とミュージカルの大きく違う点は、映画は小説に基づいたあらすじから登場人物を可能な限り限定していることである。
例えば映画にはエポニーヌが出てこない。ミュージカルの場合は台詞が多いため登場人物の心情が観客にストレートに伝わる。
作品の見せ場は、ジャン・バルジャンの登場、司教との出会い、銀の燭台の盗み、
市長になったジャン・バルジャン、ファンティーヌとの出会い、馬車の事故、ジャベールの告発、
ファンティーヌの騒ぎと看病、偽ジャン・バルジャンの裁判、ファンティーヌの死、コゼットとの出会い、
成長したコゼットとマリユスとの出会い、などを踏まえて作品を細かく見ていきたい。


3.3.1 バルジャンの登場と司教との出会い

 映画のオープニングは古びたトランクの中に入った花模様のネックレスと
ボロボロのクマの人形を懐かしむ手元が伏線の効果で少し映り、本題に入っていく。
借り出獄の黄色いパスポートを持って、宿を求めているところである。
ミュージカルはジャベールから借り出獄が言い渡され、囚人番号24653(にいよんろくごうさん)が何度も繰り返し言われる。
そこから司教に会い、自分を受け入れてくれたことに感謝するがまた盗みをしてしまう。
バルジャンは捕まえられるが「兄弟よ、なぜ銀の燭台を忘れたのか」と司教に言われ自分のした事に恥じらいを覚え
生まれ変わることを司教に約束した。


3.3.2 市長になったバルジャンとファンティーヌ

 それからジャン・バルジャンが新しい人生の出発として選んだのは、映画では9年後ビゴーの町であったが、
ミュージカルでは8年後、小説と同じディーニュから近いモントルイユ・シュールメイルである。
心を入れ替えたジャン・バルジャンはいつしか民衆に尊敬され市長となって町を治めていた。
市長の経営する工場でファンチィーヌに私生児がいる事が発覚し解雇されるが映画では、バルジャンは女工場長に判断を任せる。
ミュージカルでは、工場で騒ぎを起こしたファンチィーヌは従業員達によって辞めさせられる。
ここでの共通点は、バルジャンがファンティーヌ解雇に真剣でなかった事があげられる。
ファンティーヌは家具を売り、自分の髪を売りコゼットのために金を作る。
ここは映画もミュージカルも共通している。次に、荷馬車の下敷きになった男を救う場面だが、
映画では司教が亡くなった追悼の手紙を書いているところに事故の知らせが来る。
ミュージカルではジャベールによって、マワタボワのからかいに反抗したファンティーヌが捕まり助け出したとき馬車が暴走してくる。
ジャベールがバルジャンを疑い始めるきっかけは、映画もミュージカルもジャベールが、
馬車の下敷きになった老人を助け出す市長の怪力を見たからであった。


3.3.3 ジャン・バルジャンの裁判とファンティーヌの死

 アラスで盗みを働いた男がジャン・バルジャンとして裁判にかけられる。
ジャン・バルジャンは無実の男に罪を被せることに罪悪感を覚えるが自分が捕まれば、
ファンティーヌの思いと幼いコゼットを守ることを諦める事はできず両方をやり遂げることを心に誓う。
映画では裁判所で自らジャン・バルジャンであることを告白しその場を足早に立ち去る。
そして、ファンティーヌにコゼットを必ず引き取ることを約束すると安心したファンティーヌは静かに息を引き取ったのであった。
ファンティーヌの苦しみは死を持ってここで終わる。
映画では、お互いに食事をしたりして信頼関係を深めている場面が見られる。


3.3.4 コゼットとの出会い

 映画では、コゼットを引き取った後、バルジャンがパリに入国しようとするが、
検問ではジャベールが待ち構えていた。そこで検問所の壁にコゼットを背負いよじ登る。
壁の上から飛び移った場所は女子修道院でそこには以前、バルジャンが世話した馬車の下敷きになった男がおり世話になる。
そこで過ごした年月は10年であった。これは小説と同じだが、ミュージカルではこの部分は省略されている。


3.3.5 成長したコゼットとマリユスとの出会い

 映画では、成長したコゼットは外の世界に興味を持ってジャン・バルジャンに外で暮らしたいと頼む
。この場面から、ジャン・バルジャンがコゼットに多大なる愛情を注いでいたことが伝わってくる。
なぜなら10年経過したといってもジャン・バルジャンは罪人でありジャベールに捕まったら二度と自由はないのだから。
修道院を出た二人はアパートを探す途中革命家マリユスに遭遇する。映画ではマリユスが演説しているところにコゼットが現れる。
ミュージカルではパリで悪事を働いていたテナルディエがジャン・バルジャンとコゼットを襲おうとしているところにジャベールが現れる。
マリユスとコゼットがお互いの名前を知り、マリユスの恋文を渡すのは、映画ではマリユス自身が直接渡し恋が深まっていくが、
ミュージカルではコゼットが幼い頃を一緒に過ごしたエポニーヌによってマリユスの恋文がジャン・バルジャンに渡される。
この恋文の内容は映画でもミュージカルでも同じ効果があり、愛の告白の他にマリユス自身が今夜バリケードで仲間と蜂起することが
書かれていた。ジャン・バルジャンはこの手紙を読んでマリユスのコゼットへの想いを認め、バリケードに向かいマリユス達と戦う。


3.3.6 革命軍の蜂起

 マリユス達は共和政革命軍であった。
そして将軍でありながら民衆の味方であったラマルク将軍(注6)が亡くなった時民衆は立ち上がろうとしていた。
映画ではラマルク将軍の葬儀が国葬で行われたため激怒し、パリ中にバリケードを作り政府に反抗していた。
ミュージカルでは将軍の死で決起して町へ飛び出して行くという設定になっている。
ところで、この暴動はフランスの歴史上何をモデルとしているのか。
社会を取り巻く環境や時代的には1830年の七月革命(注7)であるように思える。

戦場では壮絶な戦いが繰り広げられる。
政府と民衆では戦力が異なり民衆は銃弾を戦火の中捨て身で拾い集めなくてはならなかった。
そこで身軽に動くことができるガブローシュが活躍をする。健気に銃弾を拾う彼の姿に頼もしさを感じる。
映画では迫力ある音響と映像でガブローシュの最期が映される。
ミュージカルでは歌が途切れ、途切れになりながら打たれても何度も立ちあがる姿で観客に感動を訴える姿が印象的だ。
ミュージカルではこの戦場で命を落とす、もう一人のヒロインがいる。エポニーヌである。
彼女はマリユスの手紙を届けたと報告する途中流れ弾に当たってしまう。
最期を好きな人の腕の中で迎える時、「あなたさえいてくれればいい、(傷は)痛くないわ」という台詞は観客に涙を誘う。

そして、革命軍に潜り込んだ一人の男がいた。彼はジャベールであった。
ジャベールの目的は、ただひとつジャン・バルジャンを捕らえることだった。
映画では、マリユスによって捕らえられ、ガブローシュの死の見せしめとして処刑されそうになるところ
ジャン・バルジャンによって助けられる。ミュージカルでは、ガブローシュによって警察である事が分かってしまい逆に
マリユス達に捕まってしまう。ジャン・バルジャンはマリユス達に貢献したためジャベールの処置を任され、
助けるという設定になっている。ここでのジャベールの心情は映画、ミュージカルとも共通で、
ジャン・バルジャンに助けられた事によって本来の目的に到達できない、はがゆさとにジレンマを起こしているということだ。
また、「私を捕らえるのは君の職務だ」というところからジャン・バルジャンが、ジャベールを憎んではいないことがわかる。


3.3.7 革命軍の敗北

 戦乱は益々激しさを増してついに革命軍は敗れる。
砲弾の煙があたりを包む中ジャン・バルジャンはマリユスを担いで下水道に身を隠す。
しかし、下水道を抜けたところで待ち構えていたものは、ジャベールであった。
ジャン・バルジャンはジャベールに「マリユスには罪はない、彼を今助けられるのは自分しかいない」と言い猶予を求める。
この場面は太宰治の『走れメロス』(注8)と重なる。
『走れメロス』は、メロスとセリヌンティウスとの友情が主題となっているから、これと同じように考えると
ジャン・バルジャンとジャベールの間には多少の友情関係があったかもしれないと筆者は思う。
これを踏まえて話しを続けるとジャベールはジャン・バルジャンの条件を飲み込み、
ジャン・バルジャンが自分のもとに戻ってくると確信し、セーヌの川岸で待ちつづける。
マリユスをコゼットのもとに送り届けたジャン・バルジャンはジャベールのもとに戻ってくる。
ここで、『走れメロス』と同様であれば二人は抱擁するかもしれないが、
ジャベールは自分の信じてきた法律や自分の中の規律である、
自分が一番疑っていた「他人を信じる」といったものによって破られたショックから眼を背け、
あるいは自分を許せなかったのか自殺という道を選択してしまう。「おまえは自由だ」というジャベールの最期の言葉は重みがある。
映画はここで終わりになっているが、小説とミュージカルには続きがある。

 戦場で気を失ったマリユスは自分がどうして生きているのか分からないまま、側にいるコゼットと幸せに暮らしていた。
ジャン・バルジャンはというと、一人でひっそりと暮らしていた。
それはなぜであろうか。筆者はその姿から、ジャベールが死んだからだけであると思っていた。
しかし、何度も作品に触れるうちに、人間は何か目的があると張り合いがあると生き生きと人生が送れるように、
ジャン・バルジャンもまた、ジャベールに人生生きがいを感じていたのかも知れないと思えるようになった。
人生に生きがいを無くしたバルジャンは、コゼットに会いに来るがそのみすぼらしい姿は以前の彼の跡形もなくなっていた。
マリユスの体調が全快した頃、彼とコゼットとの婚礼が行われた。
その席でまたもテナルディエ夫妻が訪れる、そして、革命が起こった日、テナルディエは下水道で死体から金品を漁っていたのだが、
「下水道でジャン・バルジャンが一人の死体を背負って行くのを見た。」という。
ジャン・バルジャンの背負っていた死体からも指輪を抜き取っていたが、それが自身のものであることを悟った。
マリユスはコゼットとジャン・バルジャンの元を訪ねる。しかし、彼はもう死の床にあったのであった。






注6

 ラマルク将軍は実在の人物がモデルになっていると思われる。
山川出版の『世界史B用語集』によると同じ年代に生存していた、ラマルティーヌ将軍と思われる。

注7

七月革命(1830年)7月シャルル10世による7月勅令(5月総選挙で自由主義勢力
が増加した未召集の議会を解散し、地主以外の有権者の選挙権を奪い言論・出版の統制を強化する内容)の
2日後である7月27日に学生、小市民、労働者らが3日間の市街戦を展開した。

注8

太宰治の『走れメロス』は、1940年(明治32)に発表された。
太宰は、聖書の研究や西洋近代知性の追究に努めていたころ、人間信頼の姿をこの作品に書いたといわれる。




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